多様性と選別 その3

うまいのか、本当か。意図は。

 「多様性」は選ばれた何かによって選ばれたひとつの箱、つまりは「単一性」によって「選別」され、その中でまた「多様性」が生まれていく、といったロシアの人形のような入れ子型になっている。現在、その人形は同じ箱のなかに二つ以上の入れ子が入っている状態にある。
以上のような「多様性」と「選別」を問題に当てはめてみると、これはちょうど現在言われていること重なる。近年までは、学歴によって人生が保障されるような状況であったが、現在は学歴だけあれば良いというわけではなくなってきた。何によって成功するか、失敗するかがわからくなってきている。そこで、それに対応するべく教育によって多様な人間が生み出されなければならないと言われているが、以前と同じような「社会」における「単一性」を確保するための、正誤の数だけを争う教育が未だに行われている。「社会」においては、生物としての「死」のような多様性を生み出すシステムが作り出されてはいない。「テスト」や「受験」を代わりとして挙げることができるが、これらは、「多様性」を生み出しはしない。やはりこれも「単一性」を確保する。また、「テスト」や「受験」というのは学校知が試され、出題範囲も限られており、何も切り捨てることをしないことから「段階的選別」といえる。「段階的選別」は何も切り捨てはしない。つまり、「多様性」を生み出すこともしない。「多様性」生み出すには、範囲の限定されていない無差別な「選別」、もしくは、答え方の限定されていない答え方をさせるといった方法が考えられるが、実際の教育現場である、学校で採用するのは今のところ困難であると考えられる。したがって、学校という「単一性」を確保するために全員が行くところ以外で「多様性」は確保するのが望ましい。
 「多様性」の養成として地域での教育が考えられる。これは教育と捉えず体験としたほうが良いのかもしれない。人と話す、ものを買う、何かをする、遊ぶといったことは誰かによって「単一性」を確保されているものではない。また、このようなことはしている人もいれば、していない人もいる、時間帯も、相手も違う。このようなことが学校でできるだろうか。もし、教育において何よりも早急に「多様性」を養成したいなら、学校という制度を廃止するべきだ。しかし、それは人間が「社会」を捨て、生物界に戻り、「選別」を受けることを意味する。