多様性と選別 その2

どこまで手を広げていく気だ。

 しかしながら、人間は「種」と同様に「個」を強く意識したために、生物界のような「多様性」を生み出し、その中から「選別」に耐えられるものが出てくる可能性を高めるということが難しくなった。そこで生み出されたのが「社会」である。社会は「人間」という「種」への「選別」を免除するために「単一性」確保した。その維持のために「教育」が行われてきた。その意味で、教育は社会における「単一性」を確保するための手段であるといえる。そのなかで、「学歴」というのは「社会」における「単一性」を確保しているという証明となりうるものである。
 だが、「社会」のなかにも「選別」と「多様性」は存在する。例えば、医療における「死」である。生物界では「死」は多様性を生み出し、「種」を保存する装置として存在していたが、「社会」では「死」が選別になりうる。それは、人間が「種」と同様に「個」を意識するようになったからである。さまざまな原因による「死」という選別に耐えるために医療技術は高まった。そのため、「死」の定義が、脳死から細胞死まで多様化した。これによって「死」という選別に一時的ではあるが、死に耐える者も出てきた。しかし、そこから外れた者は確実な死が待っているという状態も生み出した。また、多様な死が存在するために、別の問題である、臓器移植や安楽死という問題も生まれてきた。ここにおける「死」は生物界における「死」とは異なる。種を存続させるための多様性を生み出す装置ではなく、「社会」において突然おとずれる「選別」、それが「社会」における「死」である。また、教育は「社会」における「単一性」を確保する手段であったはずが、社会のなかでの階層を決める「段階的選別」ともなり、「学歴」はその証明となっている。ここで、教育が「選別」という側面をもち、その選別が「段階的」であるために必要とされる性質がひとつには絞れなくなった。そこで、それに対する対応として、「多様性」が求められるようになった。それが、「ゆとり教育」や「総合学習」として現れたのではないだろうか。ここでいう「多様性」とは、「個」がそれぞれもった性質を全て生かそうとするものであり、生物界における「種」の保存の可能性を高めるために「個」がそれぞれ異なる性質をもっていることで、そのなかの一部が生き残るという「多様性」とは性質の異なるものである。しかしながら、「教育」と「多様性」は本来相容れないものである。教育は本来「社会」における「単一性」を確保するための手段であるからである。この問題をつきつけられたときに「教育」の性質は変化せざる負えなくなった。生物界の選別から離れた「社会」を確保するための「単一性」だけでなく、「社会」のなかでの「段階的選別」によって「社会」からはずれてしまうことを避けるための「多様性」を養うことが求められるようになった。この多様性を養うために教育は学校以外にも存在するとせざる負えなくなった。家庭、地域、職場におけるまで、さまざまな場所に教育は存在しており、また存在していなければならないと考えられるようになった。