個性とか才能とか
まずは、前提として個性は尊重するもの。
つまり、プラスでなければならない。
社会の中で生きていく限り、プラスというのは社会的にである。
したがって、社会に適応はしなければならない。
その調整の過程が学校であるわけである。
とすると、個性というのは、社会に適応する過程における、方法のことではないだろうか。
たとえば、それはカニを食べるときに一本ずつ食べても、身を全部集めてから食べてもカニはなくなるのだ。
そうだとすると、成績が悪いとか、良いとかいうことは個性とは認められないわけである。
それは、評価であったり、結果であったりする。
そうすると、個性とはどういうものなのか。
思うに、5回書けば覚えると10回書けば覚える。
読むと覚えると聞くと覚えるくらいのものではないだろうか。
それに優劣はない。5回と10回。5回のほうが良いと思うかもしれないが、それは、短期的な記憶で、忘却曲線のことなどを考えるとどちらが良いとは言い切れない。
様々な方法で社会に適応して構わないと言っているのが、「個性を尊重する」ということではないだろうか。
しかし、ときに、社会に適応していなくても、認められるということがある。
プロスポーツ選手という職業がある。
現在、職業として認知されているが、スポーツは人間の生死に関わるものではない。
お金がもらえなければ、スポーツばかりしているというのは社会的に認められるものではない。
しかし、お金をもらい、生活している。今では、社会的な地位も手にしている。
このように、社会に適応していくのではなく、ある方法を用いていると、社会が適応してくる。
人が合わせるのではなく、社会が合わせていくということが起こりうるのだ。
このような現象を起こせる方法を才能というのではないだろうか。
たとえば、世界を平面で表した画家。
もしかすると、個性は才能に変化することがあるかもしれないが、あるとき方向を転換しなければならない。社会に適応しようとする方向から、まったく反対。
彼がそんなことを考えていたかは知らない。まあ、画家として生きていけただけでも才能があったんだろうに。
やっぱすごかったよ、あんた。