身体による選別

ニトリ難民

 最近は歯科、眼科に通っている。虫歯があるからだ。そして、新生活が始まる前に治しておこうと思ったからだ。歯科は学内、眼科は学校近く。
 
 歯科で治療されて、ライトに照らされ、天井を見ていて思った。
 “おれ人間以外だったら死んでる。”
 本来、動物に矯正などないのだ。物が食べられなくなっても、見えなくなっても動物は死ぬ。その意味では、植物は動物よりも優れているのかもしれない。
 昨年、屋久島へ旅行に行き、縄文杉をみた。そこで知ったことなのだが、縄文杉それ自体はすでに死んでいるらしい。しかし、それでもたっている。まわりから栄養をとっているかららしい。まわりと自分に区別がもはやないような状態なのだ。
 その意味で、縄文杉は矯正しているといえる。
 植物は矯正できるのだ。

 “きょうせい”といえば、最近、“共生”という言葉を耳にする。これは、生物の用語で、コバンザメのような状態をいう。共生にも2種類あり、片利共生と相利共生がある。
 片利共生は片方しか利益を得ていない状態。相利共生は互いに利益を得ている状態のことである。しかし、共に、相手のことを考えることなどありえず、自分の利益の追求のために行動した結果が“共生”という状態であっただけである。と予備校で習った。
 この“共生”が人間においてもあてはまるのだろうか。私は、言わずもがなであると思う。
 というよりも、それが“社会”であると私は思っている。
 自分が生きるために、自分の利益のために、“自然”ではなく“生物”に働きかける。しかも、同種の生物に。これは、まさに共生ではないか。
 共生など言うまでもないことなのだ。
 共生、共生と言う前に社会とは何かを考えるべきじゃないか。